大和宇陀松山藩の初代藩主
織田信雄は1558年織田信長の次男として生まれる(諸説あり)。
信長が本能寺の変でなくなると、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康と主君をかえつつ、
1614年大坂冬の陣の直後の1615年家康より上野国甘楽郡とともに
大和宇陀松山を賜り松山藩初代藩主となる。
信雄は、武将としては暗愚さがめだつが、能の名手で、
文禄2年1593年に秀吉主宰の天覧能でも能を舞っている。
(ほたる能に参加するたびにそのことが思いうかびます。)
後に信雄は京都に隠居。上野小幡藩は四男信良が継ぎ、
大和宇陀松山藩は、五男高長が継ぐ。
その後お家騒動などの末、
高長の子孫が織田信長の七男の系統の子孫へ養子にいくかたちで、
高良系統の子孫が現在まで織田家の血筋をのこし、
フィギアスケートの織田信成選手はその子孫。